【国民ファーストの党】週刊ポスト「小池新党が国政選挙に進出しそうだ」

☆小池氏 都議選終われば「国民ファーストの党」立ち上げか
(週刊ポスト)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170628-00000020-pseven-soci

http://archive.is/vTyGc

「小池氏は都議選前に側近の若狭勝・代議士と揃って自民党に離党届を出した。これは小池新党が都議会にとどまらず、いよいよ国政に進出するという意思表示とみていい。遅くとも来年12月の衆院の任期満了までには総選挙が行なわれる。選挙準備を考えると都議選が終わればすぐに“国民ファーストの党”の立ちあげに動くはずです。メンバーは若狭氏の他、小池氏と親しく維新の党を離党する意向の渡辺喜美氏に加え、民進党を離党した長島昭久氏などの名前があがっている。参院の無所属議員を含めるなどして5人はすぐ集まるのではないか」

年内に国会議員5人以上を集めて新党を旗揚げすれば、政党要件を満たし、来年分から政党交付金が支給されて「選挙の軍資金」もできるという計算だ。




《しかしながら小池百合子氏は「平成の黒田如水(黒田官兵衛)」で終わるかもしれない》

☆黒田孝高 ~ 関ヶ原の戦い

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84

7月17日(8月25日)、石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。

(略)

中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。

石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。

9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請。同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)。

9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。




☆黒田孝高 ~ 伝承・後世の俗説

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98#.E4.BC.9D.E6.89.BF.E3.83.BB.E5.BE.8C.E4.B8.96.E3.81.AE.E4.BF.97.E8.AA.AC

また慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた書状に、「関ヶ原の戦いがあともう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」とある。



☆黒田孝高 ~ 逸話

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98#.E9.80.B8.E8.A9.B1

関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた?(家康の首を取れる絶好の機会にお前は何をしていた)」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。

ただし慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのは確かである。



☆二流の人(小説)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%B5%81%E3%81%AE%E4%BA%BA_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F

関ヶ原の役となり、豊臣の血統の金吾中納言秀秋は三成の招集に応じて出陣したが、如水は小倉に走り、熱弁で秀秋の三成への裏切りの楽屋裏を仕上げた。

お膳立てを済ますと、如水は九州中津へ引き上げ、その地で関ヶ原合戦の準備の報を聞くと、20歳の血気のごとく、城の老臣らに総出仕を命じ、「いざ出陣の用意」と怒鳴った。

如水は秘かに、家康と三成が百日戦うと見越して、その間に九州・中国を一なめにし、ふるさと播磨で留まり、切り従えた総兵力を指揮して、家康と天下分け目の決戦をやるつもりだった。

如水は、家康と三成の乱闘が千日あればその時はあわよくば、という儚い一場の夢に骨の髄まで憑かれていた。

如水は、天下への30年見果てぬ夢、見飽きぬ夢にただ他愛もなく興奮し、領内の少年、隠居、浪人、町人百姓職人まで城の庭に集めて金銀を与えて準備した。

如水は大友義統を生け捕りにして豊後を平定したが、その同じ日に関ヶ原の戦いは一日で片づいてしまった。

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