https://twitter.com/MasuzoeYoichi/status/1115104466460495872
道府県議選(2277):自民1158、立憲118(+29)、国民83(-6)、公明166、共産99(-12)、日本維新の会16、社民22、大阪維新を含む諸派79、無所属536。政令市議選:自民327、立憲99、国民33、公明171、共産115、日本維新16、社民4,大阪維新を含む諸派91、無所属156。野党の活路は、立憲と国民の協力。— 舛添要一 (@MasuzoeYoichi) 2019年4月8日
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875 名前:無党派さん
投稿日:2019/04/08(月) 14:28:29.70
ID:cyC/SGed0.net
舛添は単に評論家的に言ってるだけか、それとも国民民主を乗っ取る野心があるのか?
885 名前:無党派さん
投稿日:2019/04/08(月) 16:00:53.28
ID:0DgKgY+H0.net
民民はどうしても小沢を引き入れたくないなら舛添を引き入れる手もあるぞ。
人気は全盛期の半分以下だが、知名度は抜群。
弁舌の才も衰えてはいない。
舛添を共同代表にしてはどうか。
そうすれば政党支持率は1パーセント上昇するだろう。
▼元スレ
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/giin/1553660985/
《おまけ》
☆継体天皇 ~ 生涯
https://ja.wikipedia.org/wiki/継体天皇#生涯
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。
やむなく群臣達は越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王を迎えようとしたものの、疑念を持った男大迹王は河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)を使いに出し、大連大臣らの本意に間違いのないことを確かめて即位を決意したとされる。
翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。