【政界再編】既に5人以上の国会議員が「小池国政新党」にコンタクトしている

☆国政新党、細野氏と連携も=「5人以上から接触」―若狭氏
(時事通信)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170806-00000035-jij-pol

http://archive.is/ltjKg

若狭氏は受け皿となる国政新党への国会議員の参加見通しについて、「本格的な協議はしていないが、5人以上から接触がある」と明らかにした。 



《乱世では「早め早め」に動いた者が生き残る》

☆山内一豊 ~ 豊臣家の小大名として

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A#.E8.B1.8A.E8.87.A3.E5.AE.B6.E3.81.AE.E5.B0.8F.E5.A4.A7.E5.90.8D.E3.81.A8.E3.81.97.E3.81.A6

秀吉の死後の慶長5年(1600年)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加した。家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。

この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われる。

また大坂の妻からの密書で石田三成の挙兵の知らせを受けたという話も有名である。これらは話の信憑性には疑問があるものの、東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていた。

三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、豊臣恩顧の家臣衆の取り纏め役を果たしていたとは考えられる。

(略)

戦後は小山会議での右顧左眄(うこさべん)していた諸侯を一挙に徳川加担に向かわせた発言が功績として高く評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。

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