(共同通信)
https://this.kiji.is/281740469712176225?c=39550187727945729
民進党の前原誠司代表は16日、自由、社民両党の党首と17日に国会内で会談すると明らかにした。
(略)
党首会談を3連休中に行うことについては「(臨時国会)冒頭解散もあるかもしれないと言われている」と説明した。
《おまけ》
☆大阪会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/大阪会議
大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。
下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。
(略)
当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた井上馨は、この情勢を憂い、混迷する政局を打開するには大久保・木戸・板垣による連携が必要であるとの認識を抱き、盟友の伊藤博文とともに仲介役を試みる。
木戸との連携の必要性を感じていた大久保もこれに応じ、伊藤に木戸との会談の斡旋を依頼、自ら大阪へ向かう。明治7年(1874年)12月、井上は、山口県へ帰っていた木戸を大阪に呼び寄せ、また自由民権運動の士小室信夫・古沢滋らに依頼して、東京にいた板垣も招いた。
こうして大阪に集った大久保・木戸・板垣三者による協議が、井上・伊藤を周旋役として行われることとなった。
またこの背景には、井上と同じように官界を去って実業界入りしていた五代友厚の斡旋があり、五代邸は大阪会議の準備会談として使われ、大久保や伊藤らが何度も往復したという。大久保は下準備のためにおよそ一か月間もの間五代邸(現在の日銀)に入り、年末年始を五代邸で過ごした。
他方、木戸も来阪すると五代邸に大久保を訪ね、碁を囲んだ。このことからも、両者は五代邸で囲碁を楽しんだことがわかる。
五代は大久保のためには労を惜しまなかったため、大久保から五代に宛てた「松陰(友厚の号)君へは近々勅丈にても御差立御模様に候間為御心得申上置候」との手紙は、五代が単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立ち入った積極的な役割を果たしたことを想像させる。
大久保・木戸・板垣の三者の思惑は全く別のものであったが、このように大久保の相談役そして、板垣退助との仲介役としてこの不一致を穏便にまとめた五代友厚らによって、大阪会議を成功へと導いた。